津金寺はいまから千二百年ぐらい前に行基という坊さんが木曽をとおり山部に立ちよられ、カヤの木をきざんで一メートルぐらいの木仏をつくってまつった小さな寺をたてたのがはじまりだといわれています。奈良に法隆寺ができて約百年ぐらいすぎた頃です。その頃の世の中は仏教を国中にひろめよう、仏さまをおまつりして、苦しみから救ってもらおうという教えが国中のすみずみまで行きわたってきたころです。
津金寺がいちばんさかえたのは室町時代のはじめ、今から五百九十年ぐらい前のころでした。その頃津金寺は坊さんたちの修業する道場となって各地からたくさんのお坊さんが集まって来ました。いまの津金寺のまわりには三十六の院と二十四の坊があり、津金寺にゆかりのあるお寺が四十八、あわせると百八の寺の総本山であったといいます。
いまでもそのなごりが上房と下房(竜王の池と山王舞台)という地名として残っています。
房というのは、お坊さんが住んでいるところという意味です。
そして津金寺の一の門は、いまの中居の塩の目にあったといわれています。
塩の目から町裏を通り、権現山をぬけて津金寺に入る参道が続いたのです。権現山には幾かかえもある太い松が一面にあってお寺の境内でした。
いまの仁王門前の県道をはさみ番屋川を渡ったところに大きな石と小さい石と二本の松があります。
これは川中島合戦のとき、武田信玄が津金寺にお祈りして川中島でたたかいました。この松とよばれています。
大きくさかえた津金寺は今から四百年ぐらい前織田信長が天下をとると、同時に信長の兵が信州の村や町へなだれこんできました。そして武田方がだいじにしていたお寺をつぎつぎとやいていったのです。
津金寺も信長の兵によって火をかけられました。大事な寺の記録や寺の宝はほとんどやけてしまいましたが、津金寺をまもるために駆けつけた村の人たちによって、本尊さまと数点の宝がのこされました。
石は焼けませんから年代のはいっている滋野氏代々のお墓は津金寺の裏に残って、いまは県の宝、県宝として残されています。
蓼科山のふもと一帯が牧にきめられ馬をかって朝廷に毎年馬を送るならわしがありました。この辺は望月の牧の一部です。その牧をおさめていた人が滋野氏です。
そして、徳川の朱印地としてきめられ大事にされて来ました。
仁王さまは未完成のまま立っているのにはこんな伝説がのこっています。
あるとき津金寺にひとりの男がやってきました。
「旅のものだがお寺に仁王様がいないのはなんとも気になる。見ればゆいしょあるお寺とお見受けしました。どうか、私に仁王さまをつくらせてほしい。」
「それはありがたいことです。どうか仁王さまをつくってください。」とお寺の住職さまがお願いしました。
男はいいました。
「だが一つたのみがある。わしが仁王様をつくっている間はだれも見ないでほしい。もし、ちょっとでものぞきみするようなことがあったら仁王さまはできないものと思ってほしい。」
住職さまは、「仁王さまをつくってください。おやくそくはきっときっと守りますから。」住職さまは寺男や村の人を集めて、仁王さまを作っている間は、けっして見ないようにとおいいつけになりました。
仕事場にとじこもって一ヶ月がすぎました。二ヶ月たちました。木をきざむ音は朝から夜までいつも聞こえてきます。
村の人たちは心配になりました。あんなにせいこめていられては体にさわる。もし病気になったらどうしよう。
そんなことをいい出しはじめたある日の夕方のことです。
木をきざむつちの音がぱったりとやみました。
村の人たちは心配でしかたがありません。寺男が心配のあまり仕事場をそっとのぞいてみました。
ひげがぼうぼうにのびたあの男は、これからぬろうとするうるしのうつわを手からおとしていいました。
「あんなに見てはいけないと、やくそくしたのに、とうとう見てしまったな。これでおしまいだ。」
といってかと思うと、見る見るうちに竜のすがたにかわって、黒い雲をわきおこして、空高くまいあがり、北の方をめざして消えていきました。
「九頭竜権化(くづりゅうごんげ)さまだ。」
「九頭竜権化さまが人の姿に変わって仁王さまをつくられた。」
村人は竜の消えていった空をみあげて叫びました。
仁王さまは木のはだの未完成のままになっていまも立っています。
もし最後まで続けば木の上にうるしで形が仕上げられ色がつけられて目をみはるようなたくましい仁王さまができあがったことでしょう。